沖縄から平和を考える
2001年 3月15日公開
2002年 3月25日更新

 沖縄はその亜熱帯の気候と素晴らしい海が多くの観光客を引き寄せる。
 それはそれで結構なことであるが、沖縄には今なお続く戦争の傷跡がある。
 浅い見方で見てしまえば深く考えてみることもなく通り過ぎてしまうことかもしれない。しかし沖縄を理解する上で避けて通ることのできないテーマであり、このことを見過ごして沖縄を理解できないのではないだろうか。
 このページでは私が沖縄を旅する中で理解を深めたことをその後知ったことも含めて紹介する。沖縄の美しい風景の裏にある事情を知り沖縄をより深く味わう一助になれば幸いである。

沖縄で平和を考える2つのポイント〜現代の日本人につきつけられる課題
 沖縄で平和を考えるポイントは次の2点に集約されよう。
  1.太平洋戦争における地上戦
    ひめゆり平和祈念館などを通じて知ることができる。観光コースにも入っている。
  2.米軍基地
    戦後のアメリカ統治から今日まで続く課題であり、沖縄の道を走れば目に付く。

 これらを見て「昔も今も気の毒だったんだねぇ」くらいの感想を持って帰る人は多いと思うが、「現代のわたしたちに突きつけられている課題」という意識をもって見てもらいたいと私は思う。
 沖縄にたたずむ史跡や美しい青い海を前に、たった60〜70年前にそこでどのような事件があったのか、今どのような課題があるのか考えれば旅もより実りあるものとなろう。私たちの進む方向も見えてくるのではないだろうか。

1.太平洋戦争での被害

太平洋戦争の被害が私たちに語るもの
 沖縄では太平洋戦争末期、日本国内で唯一激しい地上戦が行われた場所であり、約20万もの命が失われている。それを今日に伝える史跡や資料館などは数多い。これらを見ることで平和への意識を改めて迫られる。


 おなじみ、ひめゆりの塔。
 この奥にあるひめゆり平和祈念館(¥300)では、ひめゆり学徒隊の悲劇に関する展示がある。犠牲になった学徒隊ひとりひとりの写真や証言集もある。見応えのある展示であり時間をとりたい。
 またここでは学徒隊の生存者の証言を聞くこともできる。展示館の中にいて人数が集まると話をはじめてくれるようだ。生き証人の話は身にしみる。

 旧海軍司令部壕跡。那覇周辺にはこのような壕跡はいくつかあるようであるが、ここは見学できる。420円。
 兵士が鍬やつるはしを使って掘った壕であり、沖縄守備の日本軍がどのような状況に置かれていたかを知ることが出来、戦争の悲惨さを考えることができる。
 この壕の司令官だった太田少将が自決寸前に残した「沖縄県民かく戦えり」電報は沖縄県民の作戦協力を上層部に訴えたものでありその異例さが当時話題になったと展示されている。

 沖縄戦ではアメ兵だけが敵だったのかと言えばそんな単純なものではない。むしろアメ兵が早々に進駐した北部の方が住民犠牲は少なかった。必ずしも日本兵が住民の命を守ったわけでもなかった。またアメ兵が上陸しなかったはずの離島でも数々の悲劇があった。


沖縄本島最南端の喜屋武岬。太平世戦争末期、多くの住民がここまで追いつめられ自決させられた。
 沖縄南部では特に過酷な犠牲があった。日本軍の戦闘放棄、住民の逃避行、ガマ(洞窟)への馬乗り攻撃、野戦病院の悲劇、住民虐殺、集団自決・・・そこには生き地獄のような風景があった

 沖縄県平和祈念資料館(¥400)では、太平洋戦争を中心に展示がある。沖縄戦に至るまでや戦後のアメリカ統治下の様子も展示がある。今でこそ力のある展示がされているが開設時にどういう構想があったかを知ると今の政治の陰湿さがわかり単純には評価できない。
 手前の平和祈念公園には沖縄戦の犠牲になった人の名前が刻まれており、今も少しずつ追加されている。

 沖縄本島の南部と北部では違った自然がみられる。戦火が南部ほどではなかった北部ではやんばるの森が残った。一方石灰質の地質でガマと呼ばれる自然壕が多かった南部ではガマが住民の逃げ場となった。ガマによっては悲惨な馬乗り攻撃や集団自決の現場となったところもあったがガマで命を守った県民もいた。
 石灰質の地質の多い南部では水がよくない。写真は名水をもとめ北部の森で順番を待つ人々。2002年3月撮影。

 米軍との戦闘行為がほとんどなかった八重山諸島でも悲劇は起きた。米軍の後方かく乱のため離島残置謀者といわれた日本軍の秘密工作員が教師などを装って離島に潜入、住民をマラリアの有病地帯に強制的に疎開させ多数の犠牲者を出した。中でも西表島に疎開した波照間島住民の被害が大きかった。
 写真は疎開地の西表島・南風見で島民の帰還に尽力した当時の波照間国民学校校長・識名信升氏がこの悲劇を忘れぬようにと残した「忘勿石」と識名校長・犠牲者を祀る碑。(西表島)

 これだけの犠牲が払われたにもかかわらず、日本の歴史教科書での沖縄戦の扱いは低い。1ページあればいい方で、5行だけの記述とかそんな教科書もある。しかも実際に使われる教科書は記述の少ないものが多く採択されていく。日本の教育が人間性に対してどの程度いい加減なものかを示している。以下のようなバカがどんどん増殖していくのだろうか。

沖縄を観光する資格のないクズ観光客たち
 沖縄には多くの観光客が来るが中にはこんな考えられない観光客もいるらしい。
 観光バスがひめゆりの塔や平和祈念館などお約束の観光ポイントを案内していた時、ガイドに向かって「戦跡めぐりに来たんじゃねーよ」などと罵声を放つ観光客がいたらしい。彼にしてみれば沖縄の青い海を見たいなどというイメージがあったようだが、不勉強もさることながら人間性の欠如もはなはだしい。お里が知れるというものである。
 旅をするというのはその土地を少しでも知るということだと思う。沖縄を知る上で戦争の歴史は避けては通れない。それを少しでも知り地元の心情に配慮する神経があれば口が裂けてもそんなことは言えないはずだ。青い海だけ見たければ写真なり地元のプールなりを見ればいい。そんな程度の意識で旅をするのは資源の無駄もはなはだしい。こんな輩が世界で金満ニッポン人として恥をかいているのだろうなと考えさせられた話である。

沖縄で知ったことを社会に活かそう
 沖縄の戦跡や展示を見て「気の毒だったんだねぇ」と思って去っていく観光客はとても多い。しかしそれで終わらせずに是非もう一歩進めて現代の私たちの周辺に目をやって、この壮絶な歴史を未来に生かせるように考えたい。そうでなければ沖縄のこの犠牲は浮かばれない。
 たとえば有事法制。なぜカネカネ政党の政権政党が一生懸命やろうとするのか考えていただきたい。憲法を改正して軍隊を持てるようにしたいという政党。いわゆる国旗国歌法を制定し教育現場に普及を図ろうと熱心な政治家や一部の校長たち。過去の日本の加害の歴史を直視せず、神話や一部地域の郷土史が日本の歴史だと言い張る政党や右翼企業・団体。これらが何を意味するのか。究極の公共事業は戦争である。今まで作ったものを破壊してやり直せるのだから。アジアでの大虐殺の歴史を否定し、虐殺の象徴である日の丸を教育現場に持ち込むことで戦争への意識を高める。天皇のために死ねますソングである君が代を同じく教育現場に持ち込むことで沖縄戦のような悲劇がまたどこかで起きようとしている。なぜならそんなバカな発想がなければ沖縄戦の犠牲者はずっと少なかったはずである。
 沖縄戦の犠牲を後世に活かし、二度と同じ悲劇を繰り返さないために、沖縄に行き沖縄戦の悲惨さを見たのなら今の世の中の動きに関心をもってもらいたいものである。またこれから訪れる人はそうした動きを念頭に沖縄の戦跡を味わってほしいものである。沖縄観光の一環として戦跡をめぐる人は数多いが、そうでなければただの冷やかしに過ぎないと私は思う。

沖縄で実感する「命の大切さ」
 沖縄には「命どぅ宝」という言葉がある。沖縄での犠牲を知るとそれがよくわかる思いである。普通の暮らしをしていた住民が戦争により一家を引き裂かれ多くの犠牲を出した。その経験を知ると言葉も出ない。
 その経験があるからこそ沖縄では反戦の声は強い。反戦集会には老若多くの者が集まる。そのような声はどっかの地域のような行政や利権業者主導による「命の大切さを考える」エセ集会の数々よりよほど心に響く。
 軍国主義者や命を利権の対象としか見られない輩には反戦や平和などはくだらないらしいが、「命の大切さ」の本当の意味を知り行動したいものである。それを考える材料は沖縄には多い。

今でも残る戦争の遺産
 沖縄戦では艦砲射撃という手法で数多くの砲弾が撃ち込まれた。その数約271万発。いまでも不発弾があちこちから出る。住宅を建てるにも不発弾のことも考えながら建てなければならない。この処理にあと50年くらいかかるのではないかという人もいる。沖縄戦は今でも続いているのである。

2.米軍基地問題

米軍基地問題が私たちに語るもの
 沖縄の道路を走るとどこまでも鉄条網が続く。これが戦後沖縄を苦しめてきた米軍基地である。
 沖縄では米軍基地が多くの面積を占め、発展の妨げになってきた。基地の経済効果で発展した町もあるが、基地という麻薬に侵されている状態である。これが基地反対を一筋縄に進められない事情となっている。観光的にもアメリカナイズされたものを売りものにするところも多いが、この一症状である。
 きれいな風景だけを追っていると見過ごしてしまいそうな現実にも目を向けたいものである。沖縄自動車道などを走っていると基地などを巧みに避けるので気づきもしないかもしれないが。


読谷村の楚辺通信施設(通称ゾウの檻)。基地収用反対の声は住民の切実な声である。

沖縄を離発着する飛行機は低空飛行を続ける。観光客へのサービスでもなんでもなく米軍基地のせいで制空権が著しく制約されているためである。

普天間基地を望む。この基地の存在が市街地の発展を著しく歪めている。

嘉手納飛行場。絶えず米軍機が離発着する。沖縄の道路はどこまでも鉄網が続く

北部のやんばるの森にも東村から国頭村にかけて米軍のジャングル演習場がひろがる。

基地であることを示す海兵隊の看板が立つ

米軍に苦しめられる沖縄
 米軍基地の存在は沖縄の土地利用を制約しているだけではない。米兵による数々の犯罪が沖縄の人々を恐怖と不安に陥れつづけてきた。それは終戦以来続いているものである。沖縄の人々の明るい笑顔の奥にあるものもきちんと見つめたい。
 最近、アメリカ兵の不祥事が全国報道されるようになってきたが、戦後ずっと沖縄を苦しめ続けてきたものがようやく日の目をみるようになってきただけである。アメ兵による交通事故、レイプ、暴行事件、放火etc.はずっと沖縄を苦しめてきた。基地を横目に見るだけでなく、そうした沖縄の実状にも関心を払いたい。
 小学生をレイプしてみたり、飲酒運転で住民を殺してみたり、放火してみたりそのたびにアメ兵は綱紀粛正を口にするが、一度として効果があがったことはない。今後も何度でも同じことを繰り返すであろう。日米地位協定を犯罪隠しの手段に利用している。日本の国もそれに対してやらせ放題なままで何も手を打てない。実質共犯である。
 手許に沖縄における米兵の性犯罪の一覧表がある。数々の悪質な手口、そしてその多くが米国によってもみ消されてきたことが赤裸々に示されている。
 このような米国の対応から米国式人権がいかにいい加減なものか、自国にとってだけ虫のいいものかがよくわかる。その本質を知り米国の虫のいいプロパガンダに騙されないことが社会の動きの真実を知ることにつながる。そのことは人権の真の確立にも役立つであろう。

報道から沖縄の痛みを知る
 2001年2月、私が沖縄を訪問したとき、県知事を「バカな弱虫」と罵ったアメリカ将校の話で現地マスコミは盛り上がっていたが、これがアメ兵のまさに本音である。口先で綱紀粛正を口にしていればレイプでもなんでもやりたい放題だというのがアメ兵の包み隠さぬ本音ではないのか。その将校は知事に謝罪したらしいが互いに目も合わせなかったらしい。将校の目に反省の色はみられないし口先でだけ謝罪したということだろう。知事がまともに相手する価値もなく、その意味で稲嶺知事はバカではなかったと思う。
 そのような中で、全会一致でアメ兵の兵力削減までも決議する自治体が沖縄には出てきている。カネのためならなんでもする政党までも賛成して。これがどういう思いなのか、私たちは考えながら報道を読まなければならない。他人事ではない。最近はアメ兵の一部が本土の自衛隊演習場に進出し、うちの近所でもアメ兵がうろつくようになっている。いつまわりの子供が犯られるか気が気でない。このような動きは全国に広がるだろう。一刻も早い根本的な解決がもとめられる限りである。そんなことも思いながら沖縄の地を見てほしいと私は思う。

平和教育の最大の宝庫・沖縄
 最近、沖縄を訪れる修学旅行生が増えた。私が訪問したときも数多くの修学旅行生が沖縄を訪問していた。政策的には修学旅行基準が緩和され、遠距離や航空機利用にずいぶん寛容になった故の側面もある。これを最大限活用すれば良い教育効果が得られる一例でもあると思う。
 昔は核被害を受けたある県に平和教育の一環としての修学旅行生が数多く集まった。いまでも市民レベルでは平和についての意識は非常に高く教育的にもよい実践は数多くある。その意味では非常に価値の高い県である。私も10年くらい前であるが個人で訪問したときには感銘を受けた。まだその価値は失われてはいない。
 しかしその県では現在教育行政の中枢を右翼が握っており、その価値がゆらぎはじめている。平和教育の実践に右翼やその系統の政党が猛攻撃をかけているのがこの県の実状である。だいたいこういう平和施設の運営は行政レベルでは教育部門がやっているのが世の常である。少なくともこの県の教育行政にしてみれば平和施設なんてのは客寄せパンダに等しい認識である。そのような流れの中で修学旅行生が減少しているのは教育的に時宜を得ているし、お客様は大変正直だなと私は思う。
 沖縄は太平洋戦争時の悲惨な歴史と現代にわたる基地問題をもちあわせ、平和教育に最も適した地であると思う。沖縄の被害の細部からも現代の多様な社会問題を考える要素も多い。その意味で教育的意義も多く、是非訪れてみてほしい土地であると思う。

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